コスパ感覚と手作業の職人
先日、お気に入りの革靴のつま先部分を補強するため近所の老舗の靴屋を訪ねました。
そこは修理費が相場よりも高かったけれど、おじさんがとても親切だったのでそのままお願いすることにしました。
今回は、これとは別の視点で考えたことを書いてみようと思います。
今日のテーマは「コスパ感覚と職人」です。
この記事を書く中で、私は、
コスパ以外の尺度では何ならお金をかけても良いか?
ということを見つめなおしました。
言い換えれば、私が大切にしたいことは何なのか?という価値観に関わることです。
生活のためには日々いろいろな品物やサービスを買っていることと思います。
みなさんはどんなものに、どういう風にお金を使っていますか??
この記事は3章立てですが、
特に力が入った最後の章だけでも読んでいただけると嬉しいです。
◆この店に決めるまで
今回お世話になった靴屋は長年地元で続いてきた雰囲気が漂うたたずまい。
80歳くらいのおじいちゃん店主は、やはり若い頃から靴づくりをしてきた人だそう。
まさにたたき上げの職人でした。
それを聞いて、まず私はこの店に興味を持ちました。
その後、店主が他の修理が終わった他のお客さんの靴を見せてくれました。
見た感じ仕上がりで気になるところはなさそうです。
私がつま先補強をしてほしいと伝えると、ハーフラバーを貼ることならできるとのこと。
さすがは老職人、すべて手作業でやるとのことです。
それでますます興味が湧いた私。
肝心のお値段を訊くと、修理費は5,000円。
…おお、けっこう高いな。
というのも、ネット等によれば相場は3,000円強だったからです。
靴修理のチェーン店などはいったん工場に送って機械で作業をするから安いのかもしれません。あとは経営規模の大きさも関係するでしょうか。
もともと、近所にある靴修理の店をいくつか回った後で、どの店にするかを選ぶつもりでいました。
「やっぱり別の店にすればよかった、、」と後悔したくないからです。
以前、Wi-Fiルーターを買うために近所の家電量販店を3軒見て回ったことがあります。
移動手段が自転車しかないので、時間と労力を考えるとどうなの?という気もしますが笑。
でも納得がいくまで調べないと気が済まない性分なんです。
そのため、今回もとりあえずいったん検討するつもりでいました。
ところが、結果的にはこの店に即決しました。
◆職人に対するリスペクト
いつもなら真っ先にコスパ感覚を気にするところ、
それをあえて度外視した今回の行動。
それには「職人」に対する尊敬と憧れが大きくかかわっていると思います。
私は、自分の技術や能力によってゼロからモノを生み出せる人を尊敬しています。
自分が作ったもので人を喜ばせられることってとてもすごいと思うんですよね。
私はそういう人たちをみんな「職人」だと考えています。
具体例を挙げるとすれば、
ものづくりなら漆器工や陶芸家、
建築であれば大工や左官、
美術系なら音楽家や建築家、
ほかにも作家、研究者、機械などの設計士・整備工、プログラマーなどなど。
熟練の技術や知識を駆使してモノを手がける人なら何でもいいんです。
私は、昔から職人に対して憧れがあります。
それは、彼らが身一つで生きているという感じがしてかっこよく見えるからでしょう。
「頼るのは自分の腕だけ」みたいな。
そんな憧れを持つ一方で、私は手先が不器用で美的センスも恐ろしいほどにありません。
中学生の頃は美術の成績が5段階のうち2でした。
自画像を描く授業なんて最悪でしたね。小学校低学年が書いたのか?と間違えるほどのひどさでした笑。
また、新しいことを発想するのも苦手です。
物事を考えるときには、必ず何かを参照したくなります。
このように創造性とか独創性とは縁遠い私なので、
職人という響きに大きく惹かれるのかもしれません。
隣の芝が青く見えまくるわけです。
◆手作業の魅力
ものづくりの世界が特に分かりやすいと思いますが、
人の手で作られたものはどこか温かみを感じるものです。
焼物のお皿と機械で大量生産されたお皿を比べればその差は歴然。
焼物の方が思わず手に取ってみたくなるのではないでしょうか。
焼物でなくても漆器とか彫刻とか主に手作業で作られたものならば何でも構いません。
私たちはそれらを手にするとき、自然と丁寧に扱おうとする気持ちが生まれるはずです。
手作業で作られたものの方が高価なんだから当たり前だ、と言われればその通りです。
しかし値段云々ではなく、親しみや愛着を感じさせる何かが確かにあると思います。
少なくとも私にはそのように感じる。
そして、この感覚をなるべく大切したいと思っています。
この感覚を自覚的なものにしてくれたのは、柳宗悦の「工藝の道」という本でした。
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昭和初期に書かれたこの本は、工芸の世界においては美術館に飾られるような品ではなく、普段遣いのお椀やお皿にこそ美があると説きます。面白い本です。
務めを果たす時、人に正しい行があるが如く、器にも正しい美しさが伴うのである。
美は用の現れである。
用と美と結ばれるもの、これが工藝である。
(第1章「工藝の美」p36)
すべてを越えて根柢となる工藝の本質は「用」である。
(第2章「正しき工藝」p64)
工藝品は実際に使用できてなんぼのもの。
使われることで私たちの生活を豊かにしてくれる。
それらは生活に欠かすことのできないものとなり、次第に親しみを感じるようになる。
すると自然に愛着が生まれてきます。
「手ずれ」とか「手なれ」とか「使い込み」という言葉は、その気持ちを肯定的に表していますね。
器の助けがなければ人は生活することができないように、人の愛がなければ器も活き得ない。
人の役に立とうとする工芸品と、それを大切に使おうとする私たち。
その2つの交わりの中に、工藝の美が生まれる。
とてもざっくりまとめるとこんな感じです。
それでは、機械で大量生産されたものはどうでしょうか。
筆者は、機械生産されたものを「誤れる工藝」としてはっきりと否定しています。
かつては心を込めて作られたものも、今は利得のために荒らされてしまった。
競うためには多く作らねばならぬ。
多く売るためには安く拵えねばならぬ。
ここに粗悪が迫り濫造が強いられてくる。
作られるものは刹那刹那の運命である。
よき器を作るとても、利潤を得るものは貧しいそれらの人々(作り手)ではない。
自らでは働かず、彼らを使っている富んだ少数の人々である。
(第3章「誤れる工藝」p109、p110)
筆者は「現代の機械工藝は資本制度の招いた結果」として、
器は利潤を得るための単なる商品としてしか意味を持たなくなったと言います。
作り手の思いや創作の自由は、利潤を前にした途端許されないものとなりました。
また、それらを使用する人々も愛着を持って長く使用するということが難しくなりました。
安い代わりにすべて画一的。そこに人の手の温もりを見出すことはできないからです。
こうして社会全体の心が冷めたくなってしまった。
確かに、機械生産のおかげで物が安く手に入るようにはなったけれど、
それすらも買うのが難しいほどに作り手はどんどん貧しくなっているではないか。
機械は競争を生み、やがて生産が過剰となり、失業者が増加する。
そして、生産によって生まれた利潤は、作り手ではなく少数の資本家のもとに入る。
これは、工芸の世界だけではなく現代の消費社会全体にも通ずる問題意識だと思います。
ただし、筆者は機械を排してすべて手造りの世界に戻そうと言っているわけではありません。
機械の無制限な使用を避けるべきだと主張しています。
大事なのは「手工が主で機械が従」となる調和の取り方を模索するということです。
私はこれを読んで昨今のAIに関する議論に似ていると思いました。
本書は工芸品の美とは何か?から始まり、
資本主義社会の負の部分や今後の社会の在り方まで
取り上げるテーマの射程はとても広いです。
もしよかったら読んでみてください!
ずいぶん本の紹介が長くなってしまいました笑。
この本のおかげで私はより一層、職人に対する敬意を払いたいと考えるようになりました。
そのせいもあって今回の靴修理においても、
たとえ相場よりも価格が高いとはいえ
手作業で行う職人の技術に対して敬意を込めてこの店でお願いしたい。
そう思ったのでした。
たぶん店の人は私の思いなど知る由もないでしょう。
それでも私は、
自分の価値観に気が付き、それが今までとは違う行動につながった
ということに何となく喜びを感じているのでした。
日ごろ節約を意識した生活を送っていると、
お金を使うときには必ずコスパを気にします。
もちろんそれは大事なことなんですが、
自分の価値観や信条といったコスパ以外の尺度を持ち合わせてもいいと思うのです。
コスパ以外の尺度をどのような場面で、どの程度の金額までなら許容できるのか?
それを判断するのは難しいことです。
でもそういうところにその人の人間性や思想が如実に現れると思います。
いわゆる、人としての深みというのは、こういうところで垣間見えるものなのかなあと思ってみたり。
今回の買い物は単に靴を補強できた以上に
自分の価値観を再認識する経験となりました。
相場「+α」の部分はその勉強代でもあったんですね。
そのため、今回の買い物には大満足しています。
お陰でこの革靴を長く履くことができそうです。
そしてまたいつかこの靴を手入れするときにふと、
転勤先の田舎で出会った昔ながらの老舗の職人のことを思い出すのかもしれませんね。