こけろうの節約&長期投資ブログ

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20代独身一人暮らし。インデックス投資をやっていますが、基本ほったらかしなので趣味や考えたことの投稿がメインになっています。

とあるアラサーとその周囲の人たちの恋愛観について

コロナ禍で出会いの機会が少ない中でも、私の周りにはマッチングアプリや友だちの紹介を通じて恋人探しをしている友だちが多い。でも、実際に付き合うまで発展する話は非常に少なく、また次の人を探し始めるようになるのがほとんどだ。

 

私自身もそうだが、みんなこの「恋活」に疲弊している。特にマッチングアプリは、出会いのチャンスを手軽に広げられる一方で、それに縛られて費やす時間と気力の多さにうんざりする。メッセージを何度か重ね、ようやく実際に会うことになっても「なんか違うかも…」という結果になるのはよくある話である。

 

ところで疲弊することが分かっているのに、目の前の相手では満足できず、また別の相手探しを繰り返すのはなぜなのか。「なんか違うかも…」の「なんか」とは一体何なのか。

男女含め親しくしている人たちにおける恋愛観・ひいては結婚観というものがどんなものなのかを、私の非常に狭い交友関係の範囲からではあるが、振り返って言語化してみたい気持ちになった。

 

 

20代後半の恋愛観=感覚的なこと+現実的なこと

恋愛関係は好き同士が一緒になることであるので、理屈というよりは感情的・感覚的なことである。

とはいえ「好きになる」という感情にも、ある程度、説明可能な部分が含まれるのではないだろうか。

また20代後半の恋愛にもなると感情的・感覚的なことに加え、結婚生活を見据えた現実的な観点が比重を増してくる。

 

恋愛結婚が当たり前である現代において、20代後半の人が恋人を探そうとすれば、自ずと結婚を意識して相手を選ぶ。今後死ぬまで連れ添う可能性のある相手としてふさわしいと思えるかを、人柄や容姿等の要素をもとに互いを評価し合う。

 

こうした要素は、感覚的なことが大部分を占める。つまり、理屈ではなくフィーリングが合うかどうかに関わっている。自分の好みのタイプであったり、性格の類似点を見出すことを通じて「一緒にいて楽しい」とか「自然体でいられる」といった気持ちが芽生え、「好き」という感情がより強固になっていく。

 

一方でより現実的な観点がある。その一つの指標となり得るのが、お互いの生活水準・様式の近さだ。こうした生活観の似ている者同士の方が、一緒に生活していく上で摩擦の生じる場面が少なく、円満な家庭生活を送れる可能性が高い。

生活観の類似性を評価する具体的な観点としては、金銭感覚、職業、仕事に対する姿勢・考え方、学力などが挙げられる。これらの観点は、結婚後の共同生活を送る上で必要なものであり、その後の人生を決定づける重要なものである。

 

親しい友だちの話から分かる、恋愛に対する共通な態度はこのようなものである。「なんか違うかも…」という結論を、この恋愛観に照らして掘り下げて考えてみると、単純に感覚的に合わないことももちろんあるが、現実的な観点で合わなそうという理由も同じくらい多い。

 

選り好みを加速させるリスク思考

「それはただ、選り好みをしているだけじゃないか」と言われれば何も言えないしその通りだと思う。

だが、現実的な視点で結婚後の生活を見据えようとすればするほど、結婚相手は理想に近いものにならざるを得ない。

その背景にあるのが、リスク思考であると思う。

 

私たちは何事につけてもリスクを想定する思考法が染みついている。現時点で自分がとった選択は、将来的にどんな結果をもたらすのか。どうしたら不利益を最小限に抑えられるか。物事の移り変わるスピードが速い現代において、リスク思考は生きていく上で欠かせない能力だ。

しかし、こと恋愛に関してはこのリスク思考が難しくしている。

 

恋愛、ひいては結婚を希望する上でのリスクを考えてみると、経済的な不安を無視することはできない。

上がらない賃金、雇用の不安定化、老後の生活に関する不安は、毎日のようにメディアやネット上で煽り立てられており、自然と敏感にならざるを得ない。結婚して共に生活をするようになれば、こうしたリスクを二人で引き受けることとなる。

 

また子どもを持ちたいと思えば、より一層リスクは大きくなる。

生まれてくる子どもにはちゃんとした教育を受けさせたい、そのためにはお金が必要で、結婚相手にもなるべく働き続けてもらいたい。仕事と育児の両立が可能な職場であるか、またそのための協力をする意思がありそうか、子どもの教育に対する温度差はどの程度かなど、子育てという大事業を見据えた時に考えるべき要素はたくさんある。

 

こうしたリスクを念頭において相手に会っているとすると、職業、雇用形態、年収などの分かりやすい要素がまず重視される。

数十年後の社会がどうなっているかはもちろん分からないが、現時点で安定かつ不自由のない水準の収入があり、その状態が続くと信じられる(というか信じるしかない)のであれば、リスクの観点に照らせば目の前のその人を選ぶのは悪くない選択かもしれない。

その判断目安として、少なくとも自分と同じくらいの水準の相手を希望することが多いように思える。これが不釣り合いだと、よほど感覚的なところで意気投合しない限り、恋愛関係の発展は見込めない。

 

このようにリスク思考に基づき、経済的観点による一定のスクリーニングをしているのが実際のところではないか。

 

もちろん、相手の良し悪しを決めるのは職業や年収だけではない。最終的には、あらゆるリスクを二人で引き受けつつ乗り越えていけそうか、そのためのすり合わせができる相手かどうかという点の方がもっと重要になってくる。

だがここまでくると一度会うだけでは判断できず、何度か会うことを重ねてゆっくりと理解していくものだ。相手の人間性に関わる深い部分は、言葉遣い、仕事への姿勢、お金の使い方、友だちとの付き合い方などに滲み出てくると思う。

 

そうして価値観の深い部分における相性の良さを確かめ合った延長線上に、結婚があるのではないか。

 

選り好みするのは自分の人生に対して真剣な証

世の中の結婚している男女全員が、このようなリスクを点検した結果として今の結婚生活がある、とは全く思わない。

しかし、自分の経験を含め友だちから聞いた話を改めて振り返ると、上に書いたようなことを気にかけて相手探しを続けているのは間違いない。

と同時に、いつまでも相手を見つけられない最大の理由もここにあると思う。

 

でも裏を返せば、それだけ自分の将来を真剣に考えているということであって、無鉄砲であるよりかは断然いいはずだ。また、自分たちがまだ20代で時間的な余裕があることも大きく、数年後30代半ばになった頃には、それこそ選り好みしていられなくなるだろう。

 

そう考えると失敗続きに見える現状が、実は若さゆえの特権なのではないか、と自分たちを正当化したくなる。

いま私たちに必要なのは、安直に人生のパートナーを選ぶのではなく、じっくり腰を据えて本当に付き合いたいと思える相手を見定めることなのだろう。もちろん、相手があることなのでうまくいかないかもしれないが、それでもへこたれず打席に立ち続け、空振りを重ねていく段階にあるのかもしれない。それはそれでつらいんだけれど。

 

ただ、いくらリスクの色眼鏡でもって相手を見てしまうとしても、最終的に大事なのは二人で乗り越えていきたいと思える相手かどうかに尽きると思う。現実的な思考ばかり働かせて、感覚的な部分が曇ってしまうことのないように打席に立ち続けたい。

大戸屋に来ていた若いご家族の尊すぎる光景と、子育てとスマホについて

昨日はとても素敵な若い家族を見た。

 

私の大好きな大戸屋で晩ご飯を食べていたところ、4人家族が目の前に座った。30代半ばくらいのご夫婦に小学校低学年くらいの女の子と3歳くらいの男の子の4人家族だった。

なんとなく家族全体から品の良さが感じられる一家である。

 

男の子は元気いっぱいでよくしゃべる子だった。時折大きな声を出してしまい、その都度お母さんが大きな声を出さないで、と静かになだめる。私は、子どもはうるさいものだと心得ているつもりなので平気だが、周囲の客に迷惑そうにされるのではないか、とちょっと心配になった。客は私たちの他に4,5組いたが、幸い誰も気にしていないようだ。

 

お父さんはマスク越しでも柔和な印象が伝わってくる。終始、目元に笑みを浮かべ、優しいなまなざしで男の子と女の子の話を聞いている。男の子が、お父さんの持っていた車のキーを手に取り、それを弄びながら何やら一生懸命話している。お父さんはキーを取り上げようとせず、時々声をかけて反応している。

 

私はお父さんの醸し出す余裕のある感じがすごいと思った。これくらいの年齢の働き盛りの男性は、仕事に疲れて家庭では無愛想な人が多いと勝手に思っていたからだ。飲食店に来るたびいろいろな家族を観察していると、だいたいのお父さんはちょっと偉そうだったり、子どもに無関心だったり、家族の話を右から左に聞き流している人が多い。

しかし、このお父さんはしかめっ面など一つせず、常に、にこにこして家族のことを見ている。それに奥さんや子どもたちの話をちゃんと聞いている。家族の話を聞いては、時々声を出して笑ったり、さらに話を促したりしている。その笑みは心の底からのものに感じたし、話を聞いているときはしっかり目を見て聞いている。家族団欒の時間を大切に思っていることが感じられた。

 

普段からこんな風に話を聞いてあげているんだろうか。いやきっとそうに違いない。だって、外に来た時だけ取り繕っているわけではないことは、子どもたちや奥さんの様子を見ていれば分かる。

 

また、余裕を感じさせるのは、姿勢のせいもあっただろう。お父さんは椅子にゆったりともたれかかってはいるが、決してだらしない姿勢というわけではなく、自然な感じでくつろいでいる。

隣を見ると、別の家族の40代くらいのお父さんが、浅く椅子に腰かけ、首の根元付近で背もたれに寄りかかり、だらっとした姿勢でスマホをいじっている。対照的な座り姿勢がすごく印象的だった。

 

一方、お母さんは比較的淡々としている感じで、男の子のくつを脱がせたり、椅子の上に立ち上がろうとする彼をなだめたりしている。男の子が「みてー!」と何かを差し出せば、ちゃんと反応してあげている。あれくらいの年齢の男の子を面倒見るのは毎日本当に大変だろう。それでもお母さんはきれいにお化粧をしており、日々の育児に倦み疲れている感じはしなかった。

男の子の食事が運ばれてくると、お母さんはうどんを冷ましながら彼に食べさせていた。時々「いらない!」と拒否されるも、うまく流して淡々と食べさせている。タイミングをうまく見つけて、自分の食事もちゃんと摂っているのが、さすがお母さんだと思った。夫に話をしたり、男の子に食べさせたり、女の子に話をしたり、男の子に食べさせたりと、全く無駄がないのは私から見たら神業であった。

 

女の子は、食事が運ばれてくる間は静かに待っていて、食事が運ばれてくると行儀よく食べていた。無口でおとなしい性格というわけでもなさそうで、お父さんやお母さんに学校であった出来事を時々話している。食事の取り方や話し方を見ると、何となく賢そうな少女だった。幼い弟に対しても相手をしてあげていて、お父さんやお母さんと一緒になって反応してあげている。

 

一家の食事が終わり、お母さんが一つのお盆に4人分の食器を集めた。4人そろって手を合わせて「ごちそうさまでした」と言ってから、店を出ていった。

私は、この家族がちゃんと「ごちそうさまでした」を言うに違いないと思っていた。こういう些細なことを日常的にやっているから、育ちの良さが感じられるのかもしれない。

 

あの一家を見ていたのはほんの30分程度であったが、そんな短時間であっても、温かで笑顔あふれる幸せそうな家族だったとはっきり感じられた。私もあんな家庭を築けたらいいなと、心の底から思った。

 

 

あの家族を見ていて思ったのは、幸せそうな家族は、コミュニケーションを取るのがうまいということだった。お互いに話をしたり、聞いたりするのがしっかりできている。それは当たり前のことかもしれないが、意外にできていない家族が多いのではないかと感じている。その理由は、スマホにある。食事を待つ間は各々がスマホをいじって会話がない、という場面をけっこう多く目にしないだろうか。子どもにスマホを与え、動画を見させている場面もよく見る。

すると、必然的に会話の量が減り、家族同士の関心が弱まってしまうのではないだろうか。

 

といっても私は、スマホを見たり、子どもに貸す親たちを批判したいわけではない。ちゃんとルールを決めてスマホを使っている家庭は多いはずだし、私がたまたま目にした一場面だけでその家族を批判するのはあまりに乱暴すぎる。日常的にいつでもスマホに頼るのはさすがに良くないとは思うものの、外にお出かけしたときくらい親御さんたちだって息抜きしたいに決まっている。私は育児の経験がないが、いざ自分が親になったときにはスマホで子どものご機嫌を取っていることだろう。

 

だからこそあの一家、特にご夫婦はすごいと思った。食事が来る間も、食事をしている間もスマホをいじることなく、自然に会話が続き、時々みんな一緒になって笑う。そういう光景が、私にとって実は当たり前ではないように感じられ、それゆえに幸せな家族と映ったのだと思う。

 

子どもには、大好きな両親に自分のことを見て欲しい・話を聞いて欲しいという根源的な欲求があるのだと思う。あの女の子と男の子を見ていてそれを感じたし、実際に私が幼い頃もそうだったと感じる。その欲求に対して親がどれだけ向き合ってあげられるかが、子どもの成長に影響すると想像する。

絶え間なく話かけてくる子どもに対して、親がどれだけ面倒くさがらずに相手をしてあげられるか。親だってずっと子どもの相手をしていれば、うんざりしてくるし、一人にしてくれと思っても不思議ではない。そんな時、現代においてはスマホという便利で頼りになる、強い誘惑がある。スマホを見せるのは良くないこと、と心のうちでは思っていても背に腹は代えられない。しばらく動画を見ておとなしくしてもらおう…。

こんな葛藤を抱えながら、子育てしている自分が目に浮かぶ。特に気にしない親なら問題ないだろうが、世の中にはこうした葛藤や罪悪感と戦いながら子育てしている親御さんが多いのではないだろうか。

 

 

ネットの世界では、子育ての苦労や社会の風当たりの強さなど、どちらかというとネガティブな話をよく見かける。その影響のせいか、そういう目でリアルの家族を見てしまうものだから、「俺に子育てなんてできるのか?」と思わずにはいられない。自分だけが失敗の責任を負うならまだしも、パートナーや子どもの人生に関わると思うと、リスクが大きすぎる。子どもを持たないという選択をする人が増えるのも頷ける。

それでも、昨日のような家族団らんの光景を目にすると、やっぱり家族っていいなと思える。私はできれば子どもが欲しいと思うし、それが叶うのなら昨日のご家族のような笑顔の絶えない家庭を築きたい。私の心をも温かくしてくれるような貴重な光景を見せてくれたあの一家に、勝手にお礼を言いたい。

 

と、あれこれ考えたり、感じたりしながら、チキンカツ2倍定食を1人美味しく食べていた。自分が温かい家庭を築きたいことは分かった。でもその前に「結婚」である。あの一家にとっては何気ない日常のひと時が、私の胸にこんなに響いてきたのは、結婚という大きな問題のせいに違いない。

本棚の中は哲学などの難しそうな本ばかり それ、読んで意味あるの?

先日、友人の家に行った時に気がついたのは、私はそこに本棚があるとどんな本が並んでいるかを必ず眺めるということだ。

 

本棚はその人の嗜好が分かりやすく表れていて面白い。

小説・専門書・自己啓発本・趣味・マンガなど、さまざまなジャンルの本がある中で、どれもバランスよく本棚に並んでいることは少なく、だいたいの人は特定のジャンルに偏りが見られる。

 

私の本棚はといえば、専門的な内容の本が多い。

哲学・思想・日本文化・心理・経済などの本がメインで、趣味の本や小説は少なめだ。他人が見たら「なんか難しそうな本ばかりでいけ好かないやつ」と思われるかもしれない。

直近では、トマ・ピケティ『21世紀の資本』、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とはなにか』などを読んだ。

 

一般的に「読書は良いこと」とされている。

が、私のこれまでの読書歴は、具体的に何か役に立っているのだろうか、と疑問に思うことがある。実はこの悩みは、社会人になりたての頃から頭の中をずっと離れない。

専門的な本は、読んだ効果が実生活で見えにくいことが多いのでなおさらだ。資格のための参考書を読書の範疇に含めて比較して良いかは微妙だが、それらの類とは明らかに異なっている。

 

それでもたしかに、仕事に関わる分野の専門書であれば、役に立つことがあるだろう。

しかし、単なる興味だけで乱読を続けることに、どんな意味があるのか。

それも、多くの時間と労力をかけてまで。

なのに全体のうち、ほんの一部しか理解できないことだってある。

だったら、もっと即効性があって、実用的な本を読んだ方がいいのではないか。

なぜ背伸びをしてまで専門的な本を読もうとするのか?

 

上のような雑念的疑問に対して、今まで真正面から考えることがなかったので、本棚を眺めながら改めて考えてみた。

 

その理由を一言で言うと、「読書の相性として合っているから」というものだ。

ただし、これは私の頭が良いからということでは決してない。

むしろ、読解力が未熟だからこそである。

 

 

以前読んだ本の「知識」が、自分なりの解釈を生み出す

抽象的で難しい文章を理解するときには、他の本の「知識」が補助線になってくれることがある。

特に哲学的な本は、たった一文でも理解するのに時間がかかる。抽象度が高い文は意味を捕まえるために、持てる知識と経験を総動員し、自分なりの解釈を作りながら読み進めなければならない。

そうして得られた解釈が、本のなかで同じように書かれていたりすると、作者の意図がしっかり捉えられていると分かって嬉しくなる。

 

例えば、最近では以下のようなことがあった。

脱埋め込みメカニズムは、たとえば、広範囲にわたる日常社会生活での相対的な安心を可能にしている。先進工業国の人々、そして今日では一部その他の地域の人々も前近代において日常的に直面していた危機の一部――無慈悲な自然の力によるものなど――からは確かに守られている。他方ではしかし、新たなリスクと危険が脱埋め込みメカニズムそれ自身から生み出されてくる。

アンソニー・ギデンズ「モダニティと自己アイデンティティちくま学芸文庫 P39-40

「脱埋め込みメカニズム」とは、「相互行為を場所の特殊性から切り離すもの」と本には書かれているが、私はもっと具体的でないと理解できない。

そこで「例えば電話やネットの普及により、離れていても他人と意思疎通ができるようになった」と、ひとまず理解した。

ここから「科学技術の発達によって人間の活動範囲や何かしらの関わりを持つこととなる他人の範囲が飛躍的に広がった」という解釈を作った。

 

そして、引用の全体的な意味を解釈するにあたり、私の中で浮かんできたのは食品添加物のことだった。

食品添加物のことを上の引用文に当てはめると、

食品添加物(=科学技術)の力で、食料の増産、保存性の維持を実現し、先進諸国と一部地域では人類史上かつてない『飽食の時代』を迎えた。

一方で、現代ほど食品添加物を多量摂取している時代も初めてであり、それによる人体への悪影響は新たなリスクとなりつつある」

といった解釈になった。

 

すると本の中ではそのすぐ後で、食品添加物が例として挙げられていた。

人工成分が添加された食料品は、伝統的な食料にはなかった有毒性を持っているかもしれない。環境危機は地球全体の環境システムを脅かすかもしれない。

同掲書 P40

この部分を読んだとき、私は自分の解釈がピタッとはまった感じがして鳥肌が立った。

こんなとき、自分の解釈が著者に承認されたようで嬉しくなる。自分の読解力・解釈力も捨てたものではないと自画自賛してしまう。

 

また、以前読んだ本の知識が、全く違うジャンルの本につながったのも嬉しい。

引用文の解釈のために食品添加物のことを引き合いに出せたのは、少し前に食品添加物の本を読んでいたからだ。

過去の読書が現在に活きていると実感できると、知識の定着が確認できるし、何よりあの時間は無駄ではなかったと思える。

 

ちなみに、食品添加物の本はとてもためになったので記事にしている。

srcalmry.hatenablog.com

 

「経験」も解釈を生み出す材料になる

以上は抽象度の高い本を読み解くにあたり、過去の読書によって得た「知識」を頼りにした例であるが、「経験」を頼りにすることも役に立つ。

新しい本だけでなく、過去に読んだ本を再読することがある。すると、以前よりもすらすらと理解できることが少なくない。それは、仕事や家族・友人との関わりの中で得た経験が、読解のうえで欠かせない解釈の材料になっているからだと感じている。

単純に読解力が上がったせいもあるだろう。

 

つまり、時間が経てば勝手に理解度が高まっていることがある。

 

このことを実感してからは、より気楽に読書に臨むようになった。「なんかよくわかんないけど、気にせず読み進めてみよう」と。

そして数年後、再度その本を手に取り、すらすらと理解できた時には、過去の自分より進歩していることを実感できるはずだ。

 

ここまで書いてみて、私は読書を通じて、過去と現在の自分の立ち位置を確認することに楽しみを見出していると気づいた。

別の言い方をすれば、過去に得た知識・経験を、読書をきっかけに整理・統合する作業を楽しんでいる。

 

本との相性の問題

これは好みの問題だと思うが、私はさくさく読み進められる本よりも、理解するのに負荷のかかる本を読む方が、自分のためになると感じている。

例えば「営業で成功するための20の法則」といった自己啓発系の本より、心理学に関する新書や入門書の方を選ぶ。

 

なぜなら負荷のかかる本の方が、自分なりの解釈を必要とする場面が多いからだ。

より能動的に本と向き合い、過去の知識・経験を総動員して理解しようとする過程そのものが、知識として活用できるほどに定着するのを促してくれる。

 

これがさくさく読める本であると、ひっかかる部分が少ないので深めるべきところを素通りしてしまう。

読み終わると一時的にレベルアップしたような気になるが、実生活で活用することはほとんどない、というのが今までの私の経験だ。

 

だからといって、難しい本の方が良いというつもりはない。内容が難しいということは、それだけ誤読のリスクが大きいからだ。

 

「どんな本を読むのか」という選択には、人間関係と同じく相性の問題が多分にあると思う。そして相性の良し悪しを知るためには、いろいろな本を読んでみることが一番の近道なのではないだろうか。

私の場合は、たまたま難しめの本に相性が良かったというまでだ。間違っても知識を振りかざしたり、読んでいる本で相手にマウントを取るようなことはしてはならない。

「何を読んでいるか」よりも「何を学び、どんな人間であるか」の方が重要だと思う。

 

だから、人の本棚を見て「低俗」とか「意識高い系(笑)」などの価値判断はしたくない。実際に、そういう見方をする人を目にしたことがあり、嫌な気持ちになったことがある。

 

本棚の中のネットワーク

私が難しめの本を好むのは、以下の点のような相性の良さにあるらしい。

  • 難しめの本を自分の解釈でもって理解しようとすることが単純に楽しいこと。
  • その解釈を生み出すために、過去の知識・経験を整理・統合する作業が楽しいこと。
  • また、解釈を生み出す過程そのものが理解度を増しているということ。
  • たとえその時理解できなくても、後になって理解できることもあり、進歩を実感するのが嬉しいこと。

「じゃあ何の役にたつのか?」という功利的な観点から答えようとすると、なかなかはっきりとは答えにくい。

強いて言えば、抽象的な文章に抵抗感が少なくなったおかげで、仕事において人が読むのを嫌がる書類などを割と平気で読めたりする。

またその内容について、自分なりの解釈でもって意見を述べる機会は多い。内容を解説したり、方針を示して議論のスターター役になったりする場面が多いのは、読書の賜物といっていいかもしれない。

 

最近は、ある本を理解するために別の本を参照することが増えてきた。本棚の中は、違うジャンルの本どうしがつながりを持っていて、ネットワークのようになっている。

他人が見たら分からないが、自分の中ではつながりを持つ本の数々。このようにして本棚を眺めるのは、本を借りるのでは味わえない、所有することの醍醐味である。

 

人それぞれ本棚の中は、表題だけでは分からないその人特有の分類の仕方があるかもしれない。そう思うと、ますます人の本棚が気になってくる。

食品添加物を避けるための具体的方法について

「食品の裏側 みんな大好きな食品添加物」を読んで以来、食事に関心を持つようになった。

前回の記事でも触れたとおり、食品添加物というと毒性に注目されがちで危険性を心配されることが多い。が、私たちの食生活を豊かにしている側面があるのも否めない。そのため、私は食品添加物とうまく付き合っていこう、という程度で気を付けていくことにした。無添加ではなく、私はこれを減添加・避添加と呼びたい。

srcalmry.hatenablog.com

減添加・避添加を意識し始めてから少しずつ、しかし着実に食生活が変わっていった。添加物を少し意識するだけで、身体的な変化だけでなく、食事に対する充実感が高まるなど、嬉しいことがたくさんある。今回は、具体的に食生活をどう変えたのかについて、4つ挙げてみたい。

 

1.生鮮食品を買い、作り置きをする

安くなっている野菜や添加物の入っていない乾物を買い、それらを使って常備菜を作っている。今ではすっかり定番になったレパートリーとして、なすの煮びたし・ピーマンの塩和え・小松菜のおひたし・切干大根・ひじき煮などがある。これらはすべて電子レンジだけで作ることができる。ネットで野菜の名前を検索すれば、いくらでもレシピが出てくるのは本当にありがたい。週末の時間があるときにまとめて作ってタッパーに分けて冷凍しておけば、保存もきき、必要な量だけとってすぐに食べられる。

このように常備菜を複数用意することよって、それまで弁当に使用していたコロッケなどの冷凍食品がなくなった。夕飯においても、何か物足りないという時には常備菜が活躍している。

 

2.本物の調味料を使う

本物の調味料とは、「アミノ酸液」や「糖類」といった化学調味料の入っていないもののことだ。例えば、昔ながらのしょうゆの醸造方法は、大豆・小麦・塩・こうじを原料とし、こうじから作られる酵素の働きによって、それぞれたんぱく質アミノ酸に、でんぷんが糖質に変わり、うまみの素が作られる。このうまみの素は、甘み・酸味・香ばしさなど化学では解析できないほど複雑な味を醸し出す。このように伝統的な方法で醸造すると、しょうゆとしてできあがるまでに1年以上を要する。しょうゆは、すべてこうじの力によって作られているのである。*1

対してニセモノの調味料は、化学的な製造工程を用いて時短と低コスト化を図った製品だ。このようにして大量生産されるニセモノの調味料には、いかにも本物らしく仕立て上げるために多様な添加物が使用されている。例えば、夕食の献立が手作りの「煮物」と「刺身」であったとしても、ニセモノのしょうゆを使うだけで7種類も8種類も添加物を摂取することになってしまう。*2

ニセモノの調味料はしょうゆだけでなく、みりん・料理酒・みそなど、さまざまな調味料に見られる。よって私は、米や大豆やこうじなどの原材料のみで作られている調味料を買うことにした。価格はピンキリであるが、原材料のみで作られていることを条件に、手が届きやすいもので揃えている。実際に買ってみると、味がしっかりしているので使うのは少量で足りるし、料理もおいしくなる。確かに特売品で売っているようなニセモノに比べれば価格は高いものの、料理のおいしさや健康面など、全体としてみた時にはむしろコスパが良いのではないかと思う。

 

3.朝食にオートミールを食べる

これまでの朝食は、食パンを食べていたのだが、食パンには乳化剤などの添加物が入っている。これを何かに置き換えられないかと考えた結果、オートミールに落ち着いた。もちろん砂糖などが入っていない100%オーツ麦の商品だ。忙しい朝であっても深皿に大さじ3杯のオートミールを入れ、これがひたひたになるくらいまで水を入れて、電子レンジで2分30秒温めれば出来上がる。オーツ麦本来の素朴な味がおいしく、何よりパンよりも腹持ちが良いので午前中にお腹が空かなくなったのが嬉しい。

 

4.間食にナッツを食べる

間食といえばお菓子が定番だが、添加物が多数使われている食べ物でもある。たまに食べる分にはよいが、いつも食べていてはせっかく気を遣って3食を食べるようにしているのにもったいない。とはいえ、どうしても小腹はすくものである。そこで、無塩素焼きのミックスナッツを食べることにした。

ミックスナッツもオートミールと同様、腹持ちがとても良い。毎回の食べる量はだいたい片手に収まる程度。形がなくなるくらいまでじっくりよく噛んで食べると、満腹中枢が刺激され少量でも満足できる。この商品は4種類のナッツが入っているので、味に飽きることなく楽しめる。

 

それでもたまには加工品や外食も食べる

以上が、最近起きた食生活の変化だ。これにより一応は添加物を使わない食生活に移行できたのだが、だからといって加工品を全く取らなくなったかと言われると全然そんなことはない。週1回は大好きなカップアイスを食べることにしているし、職場の人に誘われれば外食だってする。冒頭にも書いた通り、あくまで添加物とうまく付き合っていくための減添加・避添加という考え方である。

市販品に使われている添加物は国に許可されているものとはいえ、人体に与える影響は実はまだ分かっていない部分が多いという。そのため、添加物のことを考えるときは、長期的な視点で考えることが必要だと思う。これについては、また別の記事でまとめるつもりだが、なるべく取らない食生活を継続していくことが最も重要だ。

その際、どの程度徹底して気をつけられるのかは、人それぞれ違うだろう。自分に合ったやり方を見つけることは、添加物だらけの現代を生きる私たちにとって必要なことだと思う。

もしこの記事の中で誰かにとって一つでも参考になるようなことがあればとても嬉しい。

*1:安部司『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物東洋経済新報社、2005年、p80

*2:前掲書p83

うまく付き合っていきたい食品添加物

 

少し前に「食品の裏側 みんな大好きな食品添加物」という本を読んだ。著者の安部司さんは、食品添加物の専門商社に勤めていた方で、現在は各地で添加物に関する講演などを行っている。冒頭の「白い粉」だけでとんこつスープをつくる話から衝撃的だった。本物のとんこつスープを一滴も使わずとも、講演に参加した人たちが「おいしい」と感じる味が「白い粉」だけでできるという。実際に白い粉スープの実演を見せられたら、カップラーメンを買おうとする気持ちはかなり萎えてしまうのではないかと思う。

本を読み進めていくと、他にも様々な食品の「裏側」を知ることができる。ハム・ソーセージ・ジュースなど、小さい頃から慣れ親しみ、好んで口にしていた食品の数々がこんなに薬品漬けだったとは。。と、衝撃を受けっぱなしだった。添加物の過剰摂取による健康への悪影響や味覚を麻痺させること、特に子どもに与える影響の大きさを考えると、普段の食事で何を選び・避けるべきかを判断するのはとても重要なことだ。

 

こういうと、食品添加物は悪であり摂ってはいけないもの、という考え方になりがちだが、私はそうは思わない。私は、完全に添加物を排除することは無理なのでなるべく摂る量を減らしていこう、という程度で気を付けていくことにした。

というのも、この本にも書かれているとおり、添加物のおかげで我々の食生活が豊かになっているのは事実だからだ。例えば、仕事で帰りが遅くなり自炊するだけの気力がなかったとしても、スーパーやコンビニに行けば好きなものが買えて、夕飯としてすぐに食べられる。今は飽食の時代ともいわれるが、これほど食べ物に困らなくなったのは人類の歴史を振り返っても初めてのことであり、そうなったのは間違いなく添加物のおかげだ。

食品添加物はその危険性を心配されることが確かに多いが、著者はそうした点よりも「情報公開」がされていないことを問題視する。消費者は食品製造の「舞台裏」で何が行われているかを知ることも想像することもできない。実際に食品を口にする消費者がどの商品を選ぶかを判断する際、十分な情報が提供されていないのが現状だ。一方で、消費者の側が価格の安さを追い求めるあまり、企業側が添加物を使わざるを得ない状況に陥っているという指摘もしている。

こうした添加物をめぐるバランスのとれた考察も、この本を好きになった理由の一つだ。

 

食品添加物について知識のない素人であっても、分かりやすい文章で書かれているためさくさく読み進められる。巻末には賢く加工食品を選ぶための添加物分類表も掲載されており、実生活ですぐ役立てられる知識がたくさん載っているのも嬉しい。2005年初版の本であるが、20年近く経っている今でも内容は色あせない。むしろ、時が経つにつれて使われる添加物の種類がますます増える一方、無添加のものが手に入れにくくなってしまうかもしれない将来において、この本はより価値のあるものとして見直されるのではないかと思う。