こけろうの節約&長期投資ブログ

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20代独身一人暮らし。インデックス投資をやっていますが、基本ほったらかしなので趣味や考えたことの投稿がメインになっています。

本棚の中は哲学などの難しそうな本ばかり それ、読んで意味あるの?

先日、友人の家に行った時に気がついたのは、私はそこに本棚があるとどんな本が並んでいるかを必ず眺めるということだ。

 

本棚はその人の嗜好が分かりやすく表れていて面白い。

小説・専門書・自己啓発本・趣味・マンガなど、さまざまなジャンルの本がある中で、どれもバランスよく本棚に並んでいることは少なく、だいたいの人は特定のジャンルに偏りが見られる。

 

私の本棚はといえば、専門的な内容の本が多い。

哲学・思想・日本文化・心理・経済などの本がメインで、趣味の本や小説は少なめだ。他人が見たら「なんか難しそうな本ばかりでいけ好かないやつ」と思われるかもしれない。

直近では、トマ・ピケティ『21世紀の資本』、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とはなにか』などを読んだ。

 

一般的に「読書は良いこと」とされている。

が、私のこれまでの読書歴は、具体的に何か役に立っているのだろうか、と疑問に思うことがある。実はこの悩みは、社会人になりたての頃から頭の中をずっと離れない。

専門的な本は、読んだ効果が実生活で見えにくいことが多いのでなおさらだ。資格のための参考書を読書の範疇に含めて比較して良いかは微妙だが、それらの類とは明らかに異なっている。

 

それでもたしかに、仕事に関わる分野の専門書であれば、役に立つことがあるだろう。

しかし、単なる興味だけで乱読を続けることに、どんな意味があるのか。

それも、多くの時間と労力をかけてまで。

なのに全体のうち、ほんの一部しか理解できないことだってある。

だったら、もっと即効性があって、実用的な本を読んだ方がいいのではないか。

なぜ背伸びをしてまで専門的な本を読もうとするのか?

 

上のような雑念的疑問に対して、今まで真正面から考えることがなかったので、本棚を眺めながら改めて考えてみた。

 

その理由を一言で言うと、「読書の相性として合っているから」というものだ。

ただし、これは私の頭が良いからということでは決してない。

むしろ、読解力が未熟だからこそである。

 

 

以前読んだ本の「知識」が、自分なりの解釈を生み出す

抽象的で難しい文章を理解するときには、他の本の「知識」が補助線になってくれることがある。

特に哲学的な本は、たった一文でも理解するのに時間がかかる。抽象度が高い文は意味を捕まえるために、持てる知識と経験を総動員し、自分なりの解釈を作りながら読み進めなければならない。

そうして得られた解釈が、本のなかで同じように書かれていたりすると、作者の意図がしっかり捉えられていると分かって嬉しくなる。

 

例えば、最近では以下のようなことがあった。

脱埋め込みメカニズムは、たとえば、広範囲にわたる日常社会生活での相対的な安心を可能にしている。先進工業国の人々、そして今日では一部その他の地域の人々も前近代において日常的に直面していた危機の一部――無慈悲な自然の力によるものなど――からは確かに守られている。他方ではしかし、新たなリスクと危険が脱埋め込みメカニズムそれ自身から生み出されてくる。

アンソニー・ギデンズ「モダニティと自己アイデンティティちくま学芸文庫 P39-40

「脱埋め込みメカニズム」とは、「相互行為を場所の特殊性から切り離すもの」と本には書かれているが、私はもっと具体的でないと理解できない。

そこで「例えば電話やネットの普及により、離れていても他人と意思疎通ができるようになった」と、ひとまず理解した。

ここから「科学技術の発達によって人間の活動範囲や何かしらの関わりを持つこととなる他人の範囲が飛躍的に広がった」という解釈を作った。

 

そして、引用の全体的な意味を解釈するにあたり、私の中で浮かんできたのは食品添加物のことだった。

食品添加物のことを上の引用文に当てはめると、

食品添加物(=科学技術)の力で、食料の増産、保存性の維持を実現し、先進諸国と一部地域では人類史上かつてない『飽食の時代』を迎えた。

一方で、現代ほど食品添加物を多量摂取している時代も初めてであり、それによる人体への悪影響は新たなリスクとなりつつある」

といった解釈になった。

 

すると本の中ではそのすぐ後で、食品添加物が例として挙げられていた。

人工成分が添加された食料品は、伝統的な食料にはなかった有毒性を持っているかもしれない。環境危機は地球全体の環境システムを脅かすかもしれない。

同掲書 P40

この部分を読んだとき、私は自分の解釈がピタッとはまった感じがして鳥肌が立った。

こんなとき、自分の解釈が著者に承認されたようで嬉しくなる。自分の読解力・解釈力も捨てたものではないと自画自賛してしまう。

 

また、以前読んだ本の知識が、全く違うジャンルの本につながったのも嬉しい。

引用文の解釈のために食品添加物のことを引き合いに出せたのは、少し前に食品添加物の本を読んでいたからだ。

過去の読書が現在に活きていると実感できると、知識の定着が確認できるし、何よりあの時間は無駄ではなかったと思える。

 

ちなみに、食品添加物の本はとてもためになったので記事にしている。

srcalmry.hatenablog.com

 

「経験」も解釈を生み出す材料になる

以上は抽象度の高い本を読み解くにあたり、過去の読書によって得た「知識」を頼りにした例であるが、「経験」を頼りにすることも役に立つ。

新しい本だけでなく、過去に読んだ本を再読することがある。すると、以前よりもすらすらと理解できることが少なくない。それは、仕事や家族・友人との関わりの中で得た経験が、読解のうえで欠かせない解釈の材料になっているからだと感じている。

単純に読解力が上がったせいもあるだろう。

 

つまり、時間が経てば勝手に理解度が高まっていることがある。

 

このことを実感してからは、より気楽に読書に臨むようになった。「なんかよくわかんないけど、気にせず読み進めてみよう」と。

そして数年後、再度その本を手に取り、すらすらと理解できた時には、過去の自分より進歩していることを実感できるはずだ。

 

ここまで書いてみて、私は読書を通じて、過去と現在の自分の立ち位置を確認することに楽しみを見出していると気づいた。

別の言い方をすれば、過去に得た知識・経験を、読書をきっかけに整理・統合する作業を楽しんでいる。

 

本との相性の問題

これは好みの問題だと思うが、私はさくさく読み進められる本よりも、理解するのに負荷のかかる本を読む方が、自分のためになると感じている。

例えば「営業で成功するための20の法則」といった自己啓発系の本より、心理学に関する新書や入門書の方を選ぶ。

 

なぜなら負荷のかかる本の方が、自分なりの解釈を必要とする場面が多いからだ。

より能動的に本と向き合い、過去の知識・経験を総動員して理解しようとする過程そのものが、知識として活用できるほどに定着するのを促してくれる。

 

これがさくさく読める本であると、ひっかかる部分が少ないので深めるべきところを素通りしてしまう。

読み終わると一時的にレベルアップしたような気になるが、実生活で活用することはほとんどない、というのが今までの私の経験だ。

 

だからといって、難しい本の方が良いというつもりはない。内容が難しいということは、それだけ誤読のリスクが大きいからだ。

 

「どんな本を読むのか」という選択には、人間関係と同じく相性の問題が多分にあると思う。そして相性の良し悪しを知るためには、いろいろな本を読んでみることが一番の近道なのではないだろうか。

私の場合は、たまたま難しめの本に相性が良かったというまでだ。間違っても知識を振りかざしたり、読んでいる本で相手にマウントを取るようなことはしてはならない。

「何を読んでいるか」よりも「何を学び、どんな人間であるか」の方が重要だと思う。

 

だから、人の本棚を見て「低俗」とか「意識高い系(笑)」などの価値判断はしたくない。実際に、そういう見方をする人を目にしたことがあり、嫌な気持ちになったことがある。

 

本棚の中のネットワーク

私が難しめの本を好むのは、以下の点のような相性の良さにあるらしい。

  • 難しめの本を自分の解釈でもって理解しようとすることが単純に楽しいこと。
  • その解釈を生み出すために、過去の知識・経験を整理・統合する作業が楽しいこと。
  • また、解釈を生み出す過程そのものが理解度を増しているということ。
  • たとえその時理解できなくても、後になって理解できることもあり、進歩を実感するのが嬉しいこと。

「じゃあ何の役にたつのか?」という功利的な観点から答えようとすると、なかなかはっきりとは答えにくい。

強いて言えば、抽象的な文章に抵抗感が少なくなったおかげで、仕事において人が読むのを嫌がる書類などを割と平気で読めたりする。

またその内容について、自分なりの解釈でもって意見を述べる機会は多い。内容を解説したり、方針を示して議論のスターター役になったりする場面が多いのは、読書の賜物といっていいかもしれない。

 

最近は、ある本を理解するために別の本を参照することが増えてきた。本棚の中は、違うジャンルの本どうしがつながりを持っていて、ネットワークのようになっている。

他人が見たら分からないが、自分の中ではつながりを持つ本の数々。このようにして本棚を眺めるのは、本を借りるのでは味わえない、所有することの醍醐味である。

 

人それぞれ本棚の中は、表題だけでは分からないその人特有の分類の仕方があるかもしれない。そう思うと、ますます人の本棚が気になってくる。