「ごまかし」だって役に立つ
「ごまかす」とか「ごまかし」という言葉は、あまりいい意味で使われない。そんなネガティブな意味を持つ彼らにも、ポジティブな光を浴びせてみせようということを思いついた。
目の前でバスが行ってしまった。
「あと2分あるから余裕やろ」とのんびり歩いていたら、乗降口まであと3歩のところでプシューと音を立てて扉が閉まった。私は発車時刻を1分誤っていたらしい。
それでも閉まった入り口の前で「ギリギリ間に合った!」みたいな顔をしてアピールしてみたものの、運転手は非情にもバスを発進させた。
次のバスが来るまで30分、しかも経由地の多い便に乗らなければならないので、帰宅時間は50分ほど遅くなった。
一刻も早く帰りたい気持ちに任せてしまえば、怒りの感情がふつふつと湧いてくる。実際に、呑気に歩いていた自分に対して最初はイラついた。
「でもそれじゃあまりにも子どもすぎないかい」と、もう一人の自分がつぶやく。
「どうせ待っているなら、いっそこの出来事を記事にでもしてみたらよっぽど有意義だろうに。」
怒りに支配されそうになった私は、たしかにその通りだと思い直し、その場でブログを書き始めた。何の面白みもない記事だけど、おかげでイライラはきれいさっぱり無くなった。
ここで思ったのは、自分の感情なんて案外簡単に「ごまかせる」ものだということ。
もちろん、どんな時でも感情を制御できるわけではない。ある出来事がその人にとって切実なものであればあるほど、胸の内には強い感情が生まれる。それを全部理性でコントロールするのは不可能だと思う。
でも、日常的に起こる感情の起伏くらいならば、ごまかすことができる気がする。
重要なのは「ごまかす」のであって「コントロールする」というわけではないということだ。
コントロールしようとすると、それができなかったことが原因となり、また新たな感情を生んでしまうことになる。
コントロールとは、すなわち統制がとれていることであり、そこから外れた部分は全てエラーになる。エラーは本来あってはならないもの。だから、完全でないこと、思い通りにならない状態は新たな怒りや不満が生じる原因となる。すると、自分で自分の火に油を注いでしまい、感情はさらに激しくなってしまう。
でも、最初から「ごまかす」つもりでいる場合は、たとえ感情に身を任せる結果になったとしても、そのことで自分を責めることにはなりにくい気がする。
詐欺師でもない限り「うまくごまかせなかった!」と言って怒り狂うことはまずないと思う。
「ごまかす」を辞書で調べてみると、「都合の悪いことを隠したり、相手に分からないようにすること」とある。本当のこととは別に、偽物や嘘のことを取り繕うといったところか。
では、「ごまかしが失敗したとき」というのはどういう状態かといえば、偽物や嘘が暴かれ、本当のことが明るみに出た状態だと思う。
偽物や嘘は往々にして暴かれるものだとすれば、ごまかしが失敗するのはむしろ自然なこと。仮に、首尾よくごまかし通すことができたのであれば、それは大変幸運だったということになる。
ごまかしというのは、ダメでもともと、成功したらラッキーなもののようだ。
失敗が前提とされているので、ごまかしに失敗したとしても「あーやっぱりだめだったかー」という気持ちで終われる気がする。
一方、失敗が許されないという状態に身を置いてしまうと、心に余裕がなくなってくる。
この余裕こそ、感情に飲まれないようにするために一番重要なものではないだろうか。
どうせ失敗するならごまかし自体、意味がないと思うかもしれない。けど、湧き上がる感情に対して、一瞬でも「間」を持つことが感情の高ぶりを抑えることにつながる場合は多い。
心が反応したのとは違う角度からその出来事を見つめ直してみる。例えば「ブログを書く時間ができたじゃないか」などのように、自分にとって都合のいいように解釈することにとりあえず努めてみる。
そうしてわずかな時間であっても心の向かう矛先を変えてしまうと、気持ちが収まることがある。もしそうなってしまえば、ごまかしは大成功だ。
ただ重要なのは、ごまかしの成功失敗よりも「違う風に捉えられないか?」と考える「間」であり、そうするための心の余裕を持つことにあると思う。
ごまかしはそのきっかけとなる。所詮、感情も自分の中で起こることだ。それなら何とか良い意味に捉え直してごまかしてしまえ、というわけである。
ごまかしは、ストレスをやり過ごすために欠かせない、それでいて片意地を張らずに実践できるゆるふわな戦略だと思う。
ここまで感情と言えば、怒りや不満といった負の感情を想定してきたが、喜びとか楽しみといった正の感情については、存分に身を委ねるのがよろしい。正の感情は周囲にも自分にも良い影響を与えてくれる。
だからと言って、ごまかしによって他人を喜ばせるというのは考えものなのだが。